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いつもブログをご覧頂き、ありがとうございます。このブログを書いていますミライです。
今まで私は妖怪とは大昔に多く存在していた霊だろうくらいにしか思っておらず、妖怪について特に興味が湧くこともなく過ごしてきました。
そんな中、数年前に江戸東京博物館で開催された「大妖怪展」を見に行った時に、百鬼夜行絵巻や妖怪に関する数々の古い絵巻を見て私は、やはり妖怪とは「大昔に多く存在していた霊」であることを再確認しました。
妖怪とは、人間の心の中にある異界に対する恐れや想像を造形化したものではなく、かと言って犬や猫などの動物のように物質的に存在していたものでもなく、妖怪とは情報である霊の姿を表したものです。
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妖怪は陰陽師のような今で言う霊能者のようなサイキックな能力を持つ人達だけが視ることができたものではなく、一般的な人達の目にも視られていたと思います。
今の現代人とは違い昔の人々はインスピレーションで物を視る能力に長けていたので、今現代で霊を見る人の割合よりも多くの人が、妖怪や異界の生物の姿を見て感じ取っていたのではないかと思います。
室町時代の頃に描かれたという百鬼夜行絵巻の他に、平安時代の今昔物語集にも「百鬼夜行」という、人々が恐れた鬼や異形の妖怪の行列を描いた伝承がありますが、今から700~800年前の日本には、このような妖怪の姿をした化物のような霊がわんさかいてそれを視ていた人が多くいたと思います。
大妖怪展を見てから数年経ち、世界の何だコレミステリーや超ムーの世界Rなどのテレビ番組を見る中、私はUMAとか妖精は見なくていいから、数年前に大妖怪展で見たような本当の妖怪の姿や本当の妖怪の霊の波動を知って見たい!と強く思ったことがありました。
私のチャネリングの特徴とチャネリングができるようになった経緯で書きましたが、私が日常生活の中で本当に知りたいと思う気持ちや感情の波長が出ると、インスピレーションで答えが返って来たり、現実的に目の前に答えを見せてくれたり、道が開けて行くのですが「私が妖怪が見たい!」と思ってからしばらく経ったある日、妖怪としか思えないものを見せてくれました。
先日、紫色と金色の丹光が見える話。生まれた時から第三の目が開きっ放しの記事で書きましたが、ある日ベッドの上で目を閉じていると瞼の裏に緑色の丹光が見えました。
紫色と金色の丹光はよく見るのですが、この日私は非常に鮮やかで綺麗な緑色の丹光を見て、その美しさと珍しさに見惚れていました。
(あ~綺麗!何で急に緑色の丹光が見えたのだろう?ずっと見ていたい!)と思って緑色の丹光が消えてしまわないように、この意識を保とうとか色々なことを一瞬にして考えながら瞼の裏で見ていたのですが、なんとその丹光が、氷が一瞬で溶けて変化するかのように、丸っこい妖怪の姿に変わったのです。
こんなことは生まれて初めてで、私は「今凄いことが起きている!」と非常に驚いたのですが、心はとても落ち着いていて冷静にその様子を見ていました。
丹光を見たことも霊視もしたことがない人にとっては何のことを言っているのかさっぱり想像が付かないと思うかもしれませんが、緑色の丹光が大きさや色を変えずに、丸っこくてギザギザの毛が生えていて、手と足が短い妖怪の姿にみるみるうちに変わり、私の顔をギロッと見て慌てて逃げて行ったのです。
汗を凄く掻いているような感じで、めちゃくちゃ手と足を一生懸命に振り絞っているのですが中々前に進まずに、凄く遅いスピードで私の目の前から一生懸命に逃げていました。
時々私の顔を見ながら、あたかも早くしないと殺されるくらいの物凄い必死な形相で右から左へと逃げて行きました。
その姿はとても滑稽で、ここ(人間界の周波数か、私の目の前なのか)とは全く合わず、死に物狂いで必死に逃げて行きました。
その姿を見て私は、妖怪はとても野生的で、取っ付きにくく、暴力的ではあるけれど、心に大きな弱点があるような、そんなとても弱い波動が視て取れました。
イヌ科である狐(キツネ)は人間に懐かないと言われますが、妖怪は、しばし化けて人間を騙す狐よりももっと野生的で乱暴で、狭い世界に棲んでいるというか、こことは違う低いところに鎮まっている波動のような、そんな気がしました。
私が見た妖怪と認識するものは百鬼夜行絵巻などに描かれている妖怪の姿とはまるで違いますが、私はこれを瞼の裏で見た時「これが妖怪の姿か」という発見よりも、こんなこともちゃんと見せてくれるそちらの存在に頭が下がるような思いがしました。
そしてその「見せ方」も私にとって完璧な「場」であったことにもそちらの存在を覚えさせられました。